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2010年11月 アーカイブ

「世代」の境界線

「世代」という概念は、機械的に区切れるものではありません。


境界がややあいまいなところに、一つの難点があります。


また同じ世代に属する人であっても、個人差から、まるで別な世代の人のように見える例も少なくないですね。


数年前の流行語である「新人類」なども、若い世代を指す言葉ですが、必ずしも「昭和○○年以後に生まれた者」といった機械的区分では片づかないようだですそ


こで、ある人は「全共闘を知らず、ビートルズも知らずに育った若者」などと体験論的な説明を加え、別な人は「ハングリー感覚と無縁な若者」などと感性論的な説明を加えています。


そういうことなら、同じ年代の若者のなかに、全共闘派の親類がいて、よく知っているとか、家が貧しく、ハングリーに育たざるをえなかったとかの例外があっても、不思議ではないことになります。


現に、大相撲の力士で同じサンパチ組(昭和38年生まれ)でありながら、北尾改め横綱双羽黒は「新人類」ですが、保志改め大関北勝海は「旧人類」だなどという、いささか奇妙な報道がまかり通っています。


キャリアウーマンの世代論でも、基本的な事情は同じです。


なかには「第一世代の典型的な存在」とか、「第二世代の典型的な存在」と見られる女性もいるが、すべてのキャリアウーマンがそのように割り切れるものではありません。


ですから、派遣 千葉などのビジネスの世界への登場のしかたなどで「世代的特性」があることを確認しながらも、一人ひとりのキャリアウーマンについては、各世代の特性が何割ずつか混ざり合っているものと考え、分析的に見ていく必要があるでしょう。

丑年の大飢饒

「義留は長雨で洗い流された都動へ上る坂道にさしかかった。


まだ日の暮れるのには、早い時刻であった。


坂の右手に、墓場へ続く細い道がある。


数人の男と女がかたまって、その道を上がってくる。


義留は、「おやっ」と思って足を止めた。


一人の男が女を背負うている。


女は両手をだらっとたらして、全く力がぬけている。


この男女のむれが義留の近くまでくる間に、その女を背負うのに二度男が代った。


男と女のかたまりは、どの顔にも生気はなく、歩くのも気がぬけて弱々しかった。


背負われた女は死んでいた。


葬式を出すどころではなく、毎日大勢の人が飢えて死んでいった」・・・。


沖縄は台風が襲ってくる宿命の島です。


宝永6(1709)年には7回も台風があって、特に10月にやってきた台風は大きな災害をもたらし、その上にひでりが続いて、田や畑は作物が何一つできなくなって、食料はすっかり無くなってしまいました。


人々は木や草も食べられるものは食いつくし、木の皮までも食べ、海の藻は言うまでもなくとりつくして飢えをしのいでしました。


しかし、それでも飢え死にしたのが3199人と誌されています。


当時の沖縄の人口が約20万人でした。


わたしたちのように、沖縄ツアーなどでたまに来るような観光客には、台風に苦しむ沖縄の人の気持ちがいまいち理解できていないかもしれません。


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