東京湾の埋め立てはどこまで可能か 5

満潮のときには海から塩を含んだ水が川をさかのぼってきます。


しかし、埋め立てによって水勾配が緩くなれば、これまで以上川上まで塩水があがってくる危険性もあります。


塩気のある水は農作物に影響するのです。


川から農業用水を取ると、用水に塩気が入る、つまり土壌が悪くなるのです。


そういった問題も懸念されます。


このように、水質の悪化や気温の上昇、水勾配の低下といった問題が十分に解明されない以上、埋め立ては軽々しくやるべきではないという議論が存在しています。


・・・ところがまた、まったく埋め立てをしないでも、東京圏の生活は支障なく動いてゆくかというと、これも簡単にそうだとは言えません。


川は必ず川上から土砂を運んできます。


ですから隅田川にしても荒川にしても、少しの量ではあるけれども、土砂を運んでいます。


土砂によって東京湾は自然に埋まっていきます。


これは自然の摂理です。


ペンタキープなどガーデニングをなさっている方ならわかりますよね。


しかし土砂の流入は幸いなことに大変に少ないのです。


江戸時代までは利根川はいまの江戸川につながっており、東京湾に入っていました。

東京湾の埋め立てはどこまで可能か 4

東京湾の水面rが少なくなり、湾.に面している市街地の水際線の長さが短くなればなるほど、都市が吐き出す熱を冷やしてくれる海風がなくなってしまいます。


したがって東京はますます熱を抱かえ込んで、暑い場所になってしまうのではないかという主張もきかれます。


さらに、東京湾が埋め立てられてゆくと、川の水勾配が緩くなり、洪水のときに水はけが悪くなるという問題があります。


東京湾に川の水が到達すると、そこで水域は横に広く広がって水はけが非常に良くなるのです。


川が河口で急に広がることで水勾配がしっかりととれていました。


ところが河口部の両側が埋め立てられていくと、前方の海域であρたところが細くなり、川に変わっていきます。


川がその分東京湾の方に延びてしまうことになります。


たとえば東京湾が完全に埋められたとしましょう。


隅田川や荒川が、埋められた東京湾の一番先まで延びるわけですから、川が長くなるのです。


川が長くなるということは水の勾配が緩やかになることを意味します。


水勾配が緩やかになるために、台風による大出水のときには川の水位がこれまでよりも上昇するのです。


この水位の上昇は内陸部の支川の水はけを悪くして、奥地の低地に水害をひきおこす危険性が生れてきます。

東京湾の埋め立てはどこまで可能か 3

東京湾の環境を守る立場から考えてみます。


東京湾は今でも埋め立てで水面がだんだんと少なくなってきています。


水量にも限度があります。


そこにいろいろな汚い水が流れ込んでいます。


東京都市圏の2千万人が使った水が流れ込んでいます。


そういう汚い水は、広い水面の上で波立つ大量の水や、海辺の砂や日差しといった自然の力によってきれいにされます。


これは川や海の自浄作用と呼ばれています。


しかし東京湾の水面が埋め立てによって少なくなると、この自浄作用が弱まってきます。


そういう点を厳しく指摘する、自然環境を守る立場の人達がいます。


自然の力が弱まるという点でもう一つの議論があります。


東京湾を埋め立てると、湾からの海風が内陸部に到達する力が弱まってきます。


海風は海の冷たい温度を東京の内陸部に持ち込んでくれます。


それによって内陸部の気温が下げられます。


そういう点では水面が広い湾や湖に面している都市ほど、夏のむさくるしい暑さを海風が拡散してくれます。


東京湾の埋め立てはどこまで可能か 2

国際的な視野も広く柔軟な思考の持主でした。


この案は住宅問題の解決という点では画期的であり、普通の役人が現実と既存の制度のしがらみのなかから答えを求める姿勢とは大きく異なり、素晴らしい案だという評価を受けました。


しかし、実際にはそれは実現しなかったのです。


当時の日本では経済的にそのまうな巨額の資本投入は無理でしたし、本当に実施するために十分な東京湾の環境調益もできていませんでした。


水質の問題や、山がけずりとられるために、気象条件が変わり内陸部の温度が上がるのではないかという反論もありました。


あるいは道路をどうつくればいいかという技術的な問題もあって、それは一つの提案にとどまりました。


東京湾を埋め立てて住宅都市をつくるという提案は、その後昭和305、6年頃産業計画会議によっても行われています。


東京湾の真中に大きい人工島をつくる・・・。


その規模はやはり東京湾全体の3分の1くらいを考えたのです。


それから後も、丹下健三氏の東京湾改造計画や、またここ数年来いろいろな人から東京湾を埋め立てたらいいではないかという意見が出ています。


しかし、東京湾はそのように簡単に埋めてもいいものなのでしょうか。

東京湾の埋め立てはどこまで可能か

東京湾岸地域の将来像を論ずるときは、常に、東京湾をさらに埋め立てても良いではないかという意見が持ち出されます。


埋め立てをさらに行うか否かは大変難しい議論になります。


確かに物理的には埋め立ては可能です。


たとえば房総半島の南側にある、あまり役に立たない丘陵地を全部取り壊して、その土石で東京湾の東側部分・・・


だいたい東京湾全体の3分の1を埋め立てれば良いではないかという意見があります。


そこに住宅地をつくり、森をつくろうという提案です。


この提案は昭和32年頃、日本住宅公団の初代総裁・加納氏が東京の住宅問題を解決するために行ったものです。河成鎮美子さんによると、当時、東京周辺の農地は、日本人の必須の食糧である米や麦をつくるのに大事な土地でした。


その農地を潰さずにどこか他に住宅用の土地をつくれないかと考え、それなら房総半島の山を崩して、東京湾を埋め立て、そこに住宅地をつくれば良いと考えたわけです。


加納氏はもともと銀行マンで、千葉県知事を務めた後に日本住宅公団の総裁になりました。

緑地の育成 2

一般の住宅団地でも木を植えることがこれまで以上に地域社会から要請されるようになるでしょう。


塩害に悩む海浜の住宅団地では、海岸に面して塩風を吸収できる松林を奥行き数十メートルにわたってつくっておくことは、昔からの常識でした。


この常識がここ2、30年の間にいつの間にか無視されてきていました。


このような海岸に森をつくる動向が強まり、それが東京湾全体の埋立地に約束事として決められれば、埋立地の景観や住み方は大きく改善されます。


たとえば水際線から奥行き100メートルは、公園だろうと、工場用地、オフィス用地、あるいは住宅団地だろうと、木を植えて海岸緑地にすることが一般化すれば、この緑地的土地利用は100年たっても変わらないでしょう。


森林は100年たてば、50年前より良くなるし、200年たてば、100年前よりも良くなるのです。


樹木というのはそういうものです。


潮風に強い木を選ばなければならないという問題はあるにしても、このような埋立地の前面を緑地にするという土地利用の方針は、今後東京湾岸の価値を高める重要な考え方です。

緑地の育成

住宅は20年くらいたつと雨もりがしてきます。


一戸建住宅は30年サイクルで建てなおしが必要でしょう。


一番長もちするのは、ぜいをつくして建てられた美術館や音楽ホール、議事堂などの特殊な公共建築物で、これは100年の寿命で考えてもいいかもしれません。


しかし大部分の日本の建物は30年くらいの間隔で今後もスクラップされたり、建てられたりすると思います。


耐用限度が存在せず、100年にわたって変わらない土地利用は何かというと、それは自然でしょう。


緑地や公園です。


緑地や公園は公有地ですから、一度つくれば変わりません。


一般の宅地でもそこに建つ建物は変わるかもしれませんが、そこに植えられている木は立派に育てば育つほど、つまり時間がたてばたつほど伐りにくくなり、残されるようになります。


新日鉄の君津製作所では210年くらい前に、ドイツの森林を研究されていた高名な日本の植物生態学者の技術によって、工場敷地のなかに立派な武蔵野の森を再生することができました。


このように私企業の敷地であっても、一度大規模な公害防止用の森ができれば、それを伐って別の用途に使うことは誰もが考えなくなるのです。


これほど大規模ではなくても、最近では石油化学の工場地帯には、防災用の緑地として樹木をたっぷりと植えるようになってきました。

丑年の大飢饒

「義留は長雨で洗い流された都動へ上る坂道にさしかかった。


まだ日の暮れるのには、早い時刻であった。


坂の右手に、墓場へ続く細い道がある。


数人の男と女がかたまって、その道を上がってくる。


義留は、「おやっ」と思って足を止めた。


一人の男が女を背負うている。


女は両手をだらっとたらして、全く力がぬけている。


この男女のむれが義留の近くまでくる間に、その女を背負うのに二度男が代った。


男と女のかたまりは、どの顔にも生気はなく、歩くのも気がぬけて弱々しかった。


背負われた女は死んでいた。


葬式を出すどころではなく、毎日大勢の人が飢えて死んでいった」・・・。


沖縄は台風が襲ってくる宿命の島です。


宝永6(1709)年には7回も台風があって、特に10月にやってきた台風は大きな災害をもたらし、その上にひでりが続いて、田や畑は作物が何一つできなくなって、食料はすっかり無くなってしまいました。


人々は木や草も食べられるものは食いつくし、木の皮までも食べ、海の藻は言うまでもなくとりつくして飢えをしのいでしました。


しかし、それでも飢え死にしたのが3199人と誌されています。


当時の沖縄の人口が約20万人でした。


わたしたちのように、沖縄ツアーなどでたまに来るような観光客には、台風に苦しむ沖縄の人の気持ちがいまいち理解できていないかもしれません。


「世代」の境界線

「世代」という概念は、機械的に区切れるものではありません。


境界がややあいまいなところに、一つの難点があります。


また同じ世代に属する人であっても、個人差から、まるで別な世代の人のように見える例も少なくないですね。


数年前の流行語である「新人類」なども、若い世代を指す言葉ですが、必ずしも「昭和○○年以後に生まれた者」といった機械的区分では片づかないようだですそ


こで、ある人は「全共闘を知らず、ビートルズも知らずに育った若者」などと体験論的な説明を加え、別な人は「ハングリー感覚と無縁な若者」などと感性論的な説明を加えています。


そういうことなら、同じ年代の若者のなかに、全共闘派の親類がいて、よく知っているとか、家が貧しく、ハングリーに育たざるをえなかったとかの例外があっても、不思議ではないことになります。


現に、大相撲の力士で同じサンパチ組(昭和38年生まれ)でありながら、北尾改め横綱双羽黒は「新人類」ですが、保志改め大関北勝海は「旧人類」だなどという、いささか奇妙な報道がまかり通っています。


キャリアウーマンの世代論でも、基本的な事情は同じです。


なかには「第一世代の典型的な存在」とか、「第二世代の典型的な存在」と見られる女性もいるが、すべてのキャリアウーマンがそのように割り切れるものではありません。


ですから、派遣 千葉などのビジネスの世界への登場のしかたなどで「世代的特性」があることを確認しながらも、一人ひとりのキャリアウーマンについては、各世代の特性が何割ずつか混ざり合っているものと考え、分析的に見ていく必要があるでしょう。

リサイクルを考える

今回のテーマは、「リサイクルを考える」です。


モデル地区での新方式のごみ収集実験が好成績をあげるにつれ、それを市の全域に導入するのが市の当局者の間で決定的となりました。


ただし、その前に対処すべき2つの課題がありました。


1つは、分別収集後の廃プラの処理についてです。


それをそのまま焼却施設に入れるのでは分別の意味がありません。


・・・といって埋立地に直送してそのまま処分するようでは、埋立地を長持ちさせ、地盤も安定させたいとする市の方針にとっては、かえってマイナスとなりかねません。


そこで市は溶融固化装置を導入し、廃プラの容積を元の30~40分の1に減容固化することにしました。


のみならず近い将来には、廃プラの再利用の可能性を探っていきたいといいます。


2つは、新方式の真の効果についてはコスト問題を抜きにして語れないことです。


この点に関して高知市は、実に巧みな方策を編み出しました。


つまり、市の生ごみ収集は週2回であるため、全市域を月木と火金の収集区域にニ分すれば、水曜日は空くことになります。


そこで水曜日に廃プラだけの収集を行えば、現有の人員、車輌等で足りるかもしれず、少なくとも最小限の人員・車輌の増に抑えることができる、というのです。


こうして高知市では水曜日が「プラスチックの日」と定められ、全市域にわたって廃プラだけの収集が行われることになりました。


このアイディアには市の職員組合の理解と協力も得られたため、廃プラ収集は既存の人員・機材で行うことができることになりました。


リサイクルトナーのように素晴らしいアイディアですね。


1990年1月24日の水曜日からプラごみ収集が開始され、全市域にわたって5分別収集がスタートしたのです。